暗い森の中に彼はいた。
 歪み、曲がりくねった木々の、細い枝の上に、男にしては細い体を乗せ、幹に肩と頬を寄せている。
 静かな雨音だけが響く森。
 いつもは風をはらみ、柔らかく揺れる長い黒髪も、今では多くの雨水を含んで、重たげに枝と葉の隙間から垂れ下がっている。
 
 いつから彼は、ここに居るのか。
 それを知る者は、この場には居なかったが、その姿から、決して短い期間ではない事がうかがえる。
 雨にうたれ、ぴくりとも動かず、力なく手足を投げ出している姿はまるで、うち捨てられた死体のようだ。
 もしかすると、本当に死んでしまっているのかもしれない。
 いや、もしかすると、始めから生きてすらいないのかもしれない。
 しかし、それを確かめる者もまた、ここには居ない。

 死体とも、人形ともつかないそれは、ただ雨に打たれながら、木に身を寄せる。
 
 そんな彼にお構いなしに、雨は降り続ける。
 ザアザアと、森に響くはずの音を飲み込んで。
 ザアザアと、冷たく振り続ける。

 
 どれだけの時が流れただろう。
 雨音だけが支配していた世界に、小さな声が響いた。
 まるで歌うように。けれど、泣いているように、悲しげな甲高い鳴き声。
 
 それに気付いた青年の、長いまつげが小さく震えた。
 薄く開かれた、暗緑色の瞳が、気だるげに曇天を見上げる。
 ぽたぽたと冷たい雨水が、顔を叩いて流れ落ちていく。
 少しの間、ぼんやりと空を見上げていた青年の口から、ふぅと、小さな息が漏れた。
 
 表情らしい表情も浮かべないまま、緩やかに瞳を細め、遠い声に耳を傾ける。
 
「馬鹿な子だ」

 ぽつりと呟かれた言葉は、雨音に紛れて消えていく。

 響く、声。
 聴く者の胸をえぐるような、冷たく悲しい泣き声。
 遠く響く声を片耳に、再び瞳を閉じる。

「でも

 同じなのかもね。
 僕も。
 君も」

 そして小さく笑う。
 哀れむように。
 諦めるように。
 クスクスと。

 小さく、小さく。


 そして、森は再び、雨音に閉ざされた。
 時折響く、泣き声を抱いて。
 生きていないような青年を抱いて。



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