腐海の釣人



 まるでコールタールを流し込んだような、のっぺりとした黒い闇が、水平線の彼方まで続いている。
 波一つ無い、静まり返った凪いだ海。
 光を反射することもなく、ただ暗く、ただ黒く。まるで屍のように、静かに、しかし悠然と広がっている。
 いつから存在するのか、なぜそのような姿をしているのか。
 それを知る者はどこにもおらず、忌むべき悪魔を生む淀みとして、畏怖と嫌悪をこめ人はこう呼ぶ。

  腐り落ちた死の海――Pandemoniumと。



 空は奇妙な色をしていた。
 黒と、灰と、青と紫。そして赤を適当に引き伸ばし、引っ掻き回したような。まるで幼い子供の落書きを思わせる、どことなく歪で不気味な空の色だ。
 雲はひとつも無く、太陽はもちろん、月の姿も、星の姿も見つけることは出来ない。
 ただ、不気味な空と、波音一つ立てることなく横たわる漆黒の海。
 この世の終わりのような光景が、三百六十度どの方向を向いても広がっている。
 そんな、不気味な海の上に、木で出来た細長い桟橋がかけられていた。
 桟橋の先はのっぺりとした闇に包まれていて、続く先を見つけることは出来ない。
 そもそも陸地ひとつ見えないこの海の上に、橋がかけられる場所が存在するとも思えない。
 まるで海の上に突然現れたような、その奇妙な桟橋の上には、一人の男がいた。
 年の頃は五十程か。幾分くたびれた服を着た、白髪交じりの赤毛の男は、伸ばし放題の無精髭を片手で撫でながら、桟橋においた小さな箱に腰をかけている。その足元には古びたランプが置かれており、薄ぼんやりとした光を、頼りなくはなっている。
 手には長い竿。竿から伸びる釣り糸は、少し離れた漆黒の海へ沈み込んでいる。
 果たしてこんな淀んだ海で、魚など釣れるのだろうか。
 魚どころか、生き物すらいるか怪しい海の中で、それでも驚くことに、時折キラリと輝く金色の光が見えた。
 闇に包まれたこの世界で、魚の鱗が日に反射しているはずもない。だとすればあれは、黒い海の中を泳ぐ何か、そのモノが放つ光なのだろう。
 それは、男の垂らす糸を引くこともなく、キラリキラリと気まぐれに煌めいては、深い海の底へと消えていく。

「調子はどうだい」
 男しか存在していなかったはずの桟橋に、突如響いた、男のものとも女のものともつかない不思議な声に、しかし男は驚きもせずに首を振る。
「駄目だな。さっぱりだ。何にもかかりやしねぇ」
「そうだろうね。あんなものを釣り上げようだなんて、後にも先にも君くらいなものだろう」
 まるで馬鹿にしたような言い草だが、その割には淡々とした物言いで、その声色からはなんの感情も読み取ることが出来ない。

「そりゃーそうだろうよ。ここの存在を知ってる奴自体がすくねーんだ。たとえ知っていたとしても、誰がこんな腐った海に魚がいると思う。いたとしても、釣ってみようなんちゃーなかなか思わないだろうなぁ。なんてったってここは、人間が居座るには、ちょいと居心地が悪すぎる」
「少し、ね」
「なんだ、不満か?」
 男はくつくつと肩を震わせながら、いつの間にやら男の背後に立っていた声の主を振り返る。
 そこには、子供にも大人にも、男にも女にもみえ、けれどそのどれと確信する事も出来ない、奇妙な黒衣の人物が立っていた。
 周囲に広がる海よりも、更に濃度の濃い黒髪が、だらりと足元まで長く伸びている。露出した肌は恐ろしく白く、その眼は空にあったはずの月を奪い、はめ込んだかの様な金色。死んだ海と同じく凪いだ、感情の色を見せない無機質な“彼”の眼を、加齢のせいか白く濁った男の眼が見上げる。
「いや、それはないか。お前にそんな感情があるわけがない、違うか?」
 からかうような男の言葉に“彼”は答えず、ただ冷えた瞳で男を見下ろしている。そんな“彼”の様子に男はヘラヘラと笑い肩をすくめると、再び黒い海へ向き直る。

「確かにここはろくでもねー場所だ。この桟橋がなけりゃ俺だって、一刻もここに居座ることなんちゃ出来なかったろうよ。今だって体中のあちこちがむずむずして、全身を掻き毟りながら叫びだしたい気分だ。あの海を見てるとなぁ、人間なんざ皆あん中に飛び込んでさぁ“魚”になっちまう方が良い気がしてきちまう。ここはそう言う所だ。今でもずっと声が聞こえてる。生者が憎いと、世の中が憎いと、お前が憎いと、早く死んでこっちへ来いと。一体全体、どんな馬鹿がこんな所に長く居座りたがるだろうよ。でもなぁ、それでも、ほら、あれを見てみろ。あの魚を」
 時折暗い海に、その背を見せる金色の魚を指し、男は言う。
「こんなゴミ溜めみたいな場所なのに、どうしてそこに住むあの魚は、あんなにも綺麗なんだろうなぁ。見てみろ、あの輝く鱗を。長く伸びる繊細な尾を。長いこと釣り糸を垂らして生きてきたが、あんな魚を見た事は一度もねぇ。伝説と呼ばれた湖の龍魚や、閉ざされた地の空魚なんかとも全然違げぇ、あれは魂の輝きだ!なぁそうなんだろう?あれは死者の魂の輝きなんだ!」

 興奮した男の言葉に、“彼”は口だけで笑うと「そうだね」と小さく頷く。
「そう呼んでしまっても、間違いはないかもしれない。遠い何処かで産まれ、長い時を経て、ここまで流れ着いてきた、記憶の欠片。帰るべき場所も、意思も無くし、果されなかった願いだけを抱いて彷徨う魂の断片」
 浮かんでは消える金色の光を、感慨の浮かばない冷めた眼で見つめる。
 “彼”が何を考えているのか、男にはわからなかったが、きっと男が持つようなものは何も無いのだろう。
 何も。そう、何も。
 もしかすると“彼”の“魚”も、この海のどこかを泳いでいるのかもしれない。
 ふと、男はそんなふうに思った。

「それで、どうにかなりそうなのかい」
 “彼”の言葉に“魚”の事を考えていた男はハッと、泳ぎだしていた意識を、自らの網の中へ戻すと、深くため息をついて、恨めしげに海を睨みつけた。
「いいや、全然。あいつらはお前とおんなじだ。下界の魚が喜んで食いつく様な餌には見向きもしねぇ」。
 まぁしかし、と男は言葉を続ける。
「だからこそ、俺みたいなのがまだ生きていられるのかもしれねぇな」
 男の言葉と同時に、地平線まで続く漆黒の海の底から、金色の輝きがあふれた。
 海自体が光り輝いているかのような、あまりにも幻想的な光景に男は目を細める。
 それは、桟橋など一口で飲み込んでしまいそうな程に、巨大な黄金の魚であった。いっそ神々しいその巨魚は、水面を揺らす事なく、ぬうっと桟橋の横を通り過ぎると、何事もなかったようにゆっくりと、腐海の底へと消えていった。


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