人の世に潜む悪魔は、さながら鏡面に映しだされた虚像のようなものだ。
もしくは想いを投影し、揺らめく蜃気楼。
それは夢や希望、愛や幸福といった、輝かしい名を持って、人々の前に姿をあらわす。
人は深い闇の底で見る、遠く強い光を望まずにはいられない。
世界は可能性という毒に浸されているのだ。
男は絵描きだった。
物心がつく頃には、地面をカンバス代わりに絵を描いていた。
同じ年頃の子供達が、外を駆け回っている間も、一人で絵を描き続ける、そういう子供だった。
やがて彼のカンバスは板になり、布になり、少年は青年になり、青年はすっかりくたびれた男になった。
街の隅で埃をかぶった男は、それでも日々絵を描き続けていた。
変質的なまでに絵に固執していた男は、そのうち親兄弟にすら煙たがられるようになり、男がすっかり成人するよりも前に、追い出されるようにして家を出た。
初めの頃こそ、顔料どころか、その日の食事にすら困る生活をしていたが、道の端に並べられた絵が少しずつ売れるようになり、やがて男の噂を聞き、興味を持った貴族が惚れ込みパトロンとなり、今ではすっかり生活を気にせず、ただ絵を描き続けるだけでよい身分にまでのぼる事ができた。
だが、男はその事にすら興味が無いかのように、描く為だけに生きていると言うように、ただ絵を描き続けた。
男の全てはカンバスの中にあった。
白い枠の中に彩られた世界だけが、男の全てだった。
だからと言って、この世の全てに興味が無かったのかと言うと、そうとは言い切れない所があった。
いや、むしろ逆だった。
男は外の世界を渇望していた。
窓の外に広がる景色に光をみていた。
しかし、幼い頃から、絵だけを描いて生きてきた男にとって、それはとても遠過ぎたのだ。
男はただ恐ろしかった。
金が。名誉が。女が。輝かしい外の世界が、ただひたすらに恐ろしかったのだ。
その光に眼がくらみ、今までカンバスに縋り付くように生き続けてきた自分を見失ってしまう事が。
どれだけのものが手に入ろうと、男にとって世界はやはり、絵の中にだけ存在していたのだ。
それを失ってしまえば、二度と筆を持てないかもしれない。そんな自分に、一体何が残ると言うのか。
男は焦がれるあまり、外界を遠ざけるしかなかったのだ。
そんな折、男は悪魔と出会う事になる。
それは、貴族達の間で開かれた、祝賀パーティーでの出来事だった。
彼のパトロンであり、同時に良き理解者で、唯一の友人でもあった貴族の男に、誘われた時、勿論始めは断った。
今では部屋の外にでる事すら珍しい男にとって、パーティー――それも貴族の集まりなど、経験があるどころか、もはや雲の上の絵空事ですらあった。
自分には、貴族達のきらびやかな世界は似合わない。
薄暗い部屋の中で、埃と顔料にまみれ、絵を描いている方が性に合っている。
何度もそう主張したが、友人は事ある毎に男を誘ってきた。
きっと外に出ないで、ただ一人でふさぎ込んでいる男を心配してくれているのだという事は、痛い程よくわかっていた。
友人は、男には勿体無いと思える程、温かみのあるできた人間だった。
そんな友人の好意を、何度も断る事は、とても困難だった。
結局、友人の押しにまける形で、そのパーティーへの出席を決めたのだった。
しかし、本当の所は魔が差したのかもしれない。
優しい友人の好意を理由に、ほんの少しだけ、そう、少しだけ、あの暖かな光に触れてみたかった。
本当はそれだけの話しだったのかもしれない。
そして男は運命の出会いを果たす。
悪魔は女の姿をしていた。
長いまつげに囲われたその瞳は、太古の眠りから目覚めた琥珀を思わせる、鮮やかな金色。
凹凸のハッキリとした、しなやかな身体は、作り物めいて白く、繊細なラインを描く体を隠す、恐ろしく長い黒髪は、流れる水のようだった。
他の女達が、腰をコルセットで強引に締め上げ、いくつもの布とレースを重ねて膨らんだ、色鮮やかで豪奢なドレスをまとう中、漆黒のレースを縫い込んだ、シンプルなドレスをまとったその女は、男にはとても異質で、妖艶で、美しくみえた。
いや、女はまごう事なき美女だった。
美女などと言う言葉一つでは、表現出来ないほどの。
しかし、だからこそ、美女と呼ぶより他にない。
いっそ恐ろしいまでに美しい女だった。
考えるよりも先に、男は女に心を、いや、魂を奪われていた。
表情の無い、冷たい相貌に恋をしていた。
無機質に無垢な瞳から目を離す事が出来なかった。
そして同時に男は恋を失っていた。
わかりきっていたのだ!
こんな鮮やかな世界の中で生きる美しい女と、古びた部屋の中で絵を描くだけの、お世辞にも見た目が良いとは言えない男の人生が、重なる日がくる事などないと。
痛いほどにわかりきっていた。
女は、同じように、同じ舞台に生きる、貴族の男の隣を歩いてゆく。
女は男を見ない。
視界に入ることすら許されない。
わかりきっていた。わかりきっていたが、男は願ってしまった。
あの瞳に映ることが出来たらと。
それはほんの些細な願いだった。
とても小さな夢だった。
叶うはずのない。
しかし女は足を止めた。
なにも読み取る事のできない、氷の美貌が、出来すぎた彫刻のように、男の目に映る。
そして、女は振り向いた。
それは男の世界にとって、ありえない奇跡だった。
男のくすんだ瞳と、鮮やかな女の瞳が交差した。
男は確かに見た。
女の瞳に自らの姿を。
それに気付いたように、初めて女は笑った。
慈しむような優しい笑みだった。
同時に、焼きつくほどに、暴力的な笑みだった。
その日から男は来る日も来る日も女を思い続けた。
ただ一度、目があっただけの女だった。
しかし、ただそれだけで、長い間沈み込んでいた男の心は、酷くかき乱されていた。
一枚描き上げる度に、その視線の先を夢想する。
その瞳に何が写っているのか。
誰が映っているのか。
浮かぶのはいつだって、綺麗に飾られた知らない男達の姿だった。
その空想の男に、空想の女が笑いかける、その度に、心臓を荒い紐で締め上げられるような痛みに襲われ、その痛みをごまかす為に、更に腕を動かし続けた。
何枚も何枚も白いカンバスが黒く塗りつぶされていく。
自分を見ない女が、知らない誰かを見ている女が増えていく。
痛みをごまかす為に、痛みを量産していく。
男は思った。
自分は虫だ。
あの琥珀に生きたまま囚われた虫だ。
樹液のなかで、空気をもとめあえぐ虫そのものだ。
空の肺には空気など一つも流れ込んではこず、虫を嘲笑うかのように樹液ばかりが、逃げ道をふさぐ為に流れ続けて来る。
やがてこの液は長い時をかけ、虫を物言わぬ化石に変えるのだろう。
男はその運命に抗う術を持たない。
しかし、それをただ受け入れる事など、出来よう筈もなかった。
男が何度、筆を取ろうと、女が男を見る事は一度もなかった。
誰かに薄く微笑んでいる時も。
ワインに口をつけているときも。
その薄いドレスを脱ぎ捨て、熱のこもった瞳で見上げるその時ですら、琥珀の瞳に男が映る事はなかった。
そう、ただ一度も。
気付いた時には、男はペインティングナイフを片手に握りしめたまま、部屋を飛び出していた。
ろくに手入れもしていない、ボサボサの髪と伸び切った髭。顔料まみれの服と体のまま、薄暗い路地を駆け抜けていく。
貴族達は飽きもせずに、連日パーティーを開いている。
今日も行われている筈なのだ。
あれから更にふさぎ込んでいた男に、友人が何度も声を掛けてくれたから知っている。
そこにあの女の姿があるかはわからない。
けれど、男は限界だったのだ。
もう一度。もう一度だけあの瞳を。
本当にそれで満足なのか?
カンバスの外に描かれた、空想の男達が、男を嘲笑う。
来る夜も来る夜も、あの女だけを思って生きてきたではないか。
あの琥珀の瞳に映る己をなんど夢想した?
あの琥珀の瞳に映る見知らぬ男になんど嫉妬した?
たとえ今一度、あの瞳に映る事があったとしても、その瞳はすぐに他の景色を映すだろう。
本当にそれで満足なのか?
あの瞳を自分だけの物にしたいと、そうは思わないのか。
やがて見えた大きな屋敷の中に、男は脇目も振らず飛び込んだ。
ざわめきが会場へと広がり、誰かが衛兵を呼ぶ声がする。
それでも男は何かに導かれるように、ただ走り抜けた。
ドレスとドレスの間を強引にかきわけ、小さな悲鳴とグラスの割れる音を背中に聴きながら。
そして、男はついに彼女をみつけた。
それは、きらびやかな広間の中央に高く伸びる、赤い絨毯のひかれた豪華な階段の上に悠然と立っていた。
手には血のように赤いワインが注がれたグラス。
初めて見たあの日と変わらず、漆黒のドレスを纏った女が、静かな瞳で男を見下ろしている。
男はそれを運命だと思った。
まるで、信じる神を前にした聖職者のように、階下に跪くと、両の手を大きく広げ、男は叫んだ。
「麗しき琥珀の君よ!
私は隠された!貴女が流れる髪の隙間に忍ばせた、金色の瞳の中に!私はそれを知っている!
しかし私は、私だけを捕らえた輝石を探しているのだ!
それがどれ程愚かで滑稽な願いかは理解している!それでも、貴女の持つ穢れなき宝石に心を奪われてしまったのだ!
この身この魂、その全てを捧げてもいい。
どうか私を導いてくれ!!」
女は、涙を流し魂から訴えかける男を前に、ただ薄く微笑んだ。
そして開いた片手を開き、人差し指でそっと自らの瞳を指差し、静かに眼を閉じた。
それだけで男は全てを悟った。
まるでこうなる事を予測していたように、硬く握りしめていた銀色のペインティングナイフを両手で握りなおし、目元に当てる。
見上げる先には、すでに眼を開き、優しく男を見守る琥珀の君。
男だけを見つめる男だけの女。
彼女を真っ直ぐに見つめたまま、興奮に震える手でペインティングナイフを自らの眼孔に差し込む。
熱を持った頬に当たる鉄の冷たさが、心地よくすら感じる。
眼にいれるにはやや幅の広い金属が、眼球を圧迫しながら奥へと進み、やがてその先が硬い筋にふれ――
男は迷うこと無く、自らの眼球を抉り出した。
今度こそ会場に大きな悲鳴が上がった。
男の物では無い。
観客とかしていた貴族達のものだ。
男は眼孔から垂れた眼球を無造作に掴むと、強引に引きちぎった。
手の平に伝わる、ブチブチと筋肉がちぎれるおぞましい感触と、神経を焼き脳天を貫く鋭い痛みが、世界を白く染め上げる。
空になった眼孔の奥に灯る、脈打つような痛みに息が乱れ、脂汗が出たが、それも彼女を手に入れる為の痛みと思えば、喜びすら感じた。
半分になった視界の先で、男の夢であり、希望であり、神である悪魔だけが、取り乱す事もなく微笑んでいる。
男はもう一度ペインティングナイフを構えると、残ったもう片方の眼にあてた。
もう少しだ。もう少しで彼女の全てが手に入る。
この瞳に。自分だけを見つめる女を閉じ込める事ができるのだ。
男のカンバスには甘く微笑む女だけが映し出されている。
男は迷わずナイフを押し込んだ。
ムーンチャーチは芸術に力を入れた豊かな街だ。
他の街や国からも、多くの芸術家や、好事家が集まって来ており、美術展や競売も盛んに行われている。
そんな街の一角に、一人の盲目の画家が住んでいる。
眼が見えていないと言うのに、男の描く絵はどれも繊細な色使いとタッチをしており、多くの人々を虜にした。
そんな彼の絵には、一つの大きな特徴があった。
彼の描く全ての絵には、決まって同じ人物が描かれているのだ。
それは、誰も見たことの無いほど美しい、琥珀の眼の――。