「mille-feuille」



 私は、黄金色に煌く廊下を、一冊の本を抱えて歩いている。
 一面に敷き詰められた本の壁を見上げながら、煌々と灯るランプの明かりに導かれるように歩き続ける。
 色や厚さ、年季や言語、それぞれまったく違った背表紙の並ぶ本棚を見上げるだけで、心が踊るようで。

 少し高さのあるヒールが、軽い音を立てながら、大理石の床を叩く。
 360度。その全てを視界に収めるために、体を回転させながら。
 ランプの光で幾つも枝分かれした影を引きずりステップを踏む。
 
 カツンカツン――

 無人の廊下に、ただ一人の足音が響く。
 独りきりの王国の王者のように。
 独擅場の踊り子のように。
 恐れを知らぬ足取りで、幾千幾万の本の森をすり抜けていく。
 しばらくして、たどり着いたのは、見上げるほど高い天井の小部屋。
 黄金色の廊下と同じように、壁一面に敷き詰められた本を見回し、吸い寄せられるようにその一冊を手に取る。
 私は、まるで何かにとりつかれたかのように、その古ぼけた本のページをめくっていく。
 それは全ての生き物が幸せに生きる楽園の物語だった。
 読み終わると次の本を手に取る。

 それは綺麗なゴミ溜めの神様のお話だった。
 その次の本は、名前の無い悪魔のお話。
 その次は、狂い果てに世を滅ぼす男のお話。
 愛されなかった少女のお話。
 傍観する事しか許されない少年のお話。
 無知であろうとした少女のお話。
 呪われた双子のお話。

 何かが終わると同時に何かが始まる。
 開くように閉じていく。
 幾つもの物語を広げていく。

 そこには世界があった。
 世界の外側の世界の外側があった。
 果実の皮を剥くようにページを開いていく。
 幾つも。幾つも。幾つも。幾つも。
 両の手では抱えきれない程に。
 その足が埋もれても気づかずに。

 そこには神がいた。
 無数の太陽が煌めき、いくつもの月が撃ち落とされた。
 多くの人が生まれ、死に、言葉を遺した。
 私はただ、肥大化していく世界の中で、貪欲に外を欲した。
 皮をむく様にページを開いていく。
 内か外か、気にする者はどこにもいなかった。
 ただ無数の文字の上を這い回るミミズのように眼球を動かし、その背が本の背に届かなくなれば、捨てた本を積んでその手を伸ばした。
 上へ。空へ。突き抜けるほど高く。高く――。


 その塔が私の背を超え、小部屋の果てへ届く頃。
 私はようやっとその惨状に気づくのだ。
 積み上げられた本はまるで、本の中の世界に積み上げられた屍のようではないか。
 本はまだある。
 無数にある。
 この小部屋を出れば本の廊下が。その廊下の先には別の小部屋が。
 幾つもの本が。幾つもの物語が。いくつものが世界が。
 そう、新しい世界が。

 次の本へ手を伸ばしかけ、本当の本当に私はやっと思い出す。
 私は本を持っていたはずなのだ。
 あの黄金の廊下へ迷い込んだ時。
 この小部屋へ入り込んだその時まで。
 確かに、一冊の本を。
 私の本を持っていたはずなのだ。

 急に冷たい何かが背中を駆け登る。
 私は慌てて本の塔を、文字通り転げ落ち、積み上げた屍達を掘り返し私の本を探す。
 私の本。私だけの本だ。
 その本はどのような形をしていただろう。
 どの程度の厚さで、どのような色で、どのような装飾を施され、どのような内容の物語が書かれていたのだろう。
 そんな事すら思い出せないことに気づき、何もかもが真っ白になった頭を振り回しながら私は本を探す。
 私の本を探す。

 それはどんな重さをしていただろう。
 ページは白かっただろうか。それとも黄ばんでいただろうか。
 どんな色のインクで、どんな文字で綴られていただろうか。
 わからない。
 でも探すしか無い。
 だってあれは私だけの本。
 だってあれは。だってあれは。


「君は本当に、そんなものを持っていたのかい?」


 そこで私は目を覚ます。

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