暗い闇の中をゆっくりと下っていく。
全身を覆う浮遊感を感じながら、ゆっくりと
時折、コポリと口から漏れた空気が、意志を持った生物のように、体から離れて、闇の中を上っていく。
その泡をぼんやりと見上げながら、静かに静かに沈んでいく。
いつからこうしているのかも、いつまでこうしているのかもわからないまま、全ての思考を放棄して、ただ暗い水底へと
落ちて行く。
あるのかもわからない底へ向かって、ゆっくりと、ゆっくりと。
コポリコポリと、深い闇から浮かび上がり、彼を越え、高い水面へ向けて昇っていく、穏やかな泡の音だけが世界の全て。
そこには彼以外の誰もおらず、泡以外のなにも存在しない。
しかし既に思考を手放してしまった彼は、それを疑問に思うことも、不満に思うこともなく、ほんのりと冷たい、心地よい水に抱かれ、泡の音に紛れながら沈むだけ。
コポリ
コポリ
自らを覆う闇よりも、遥かに深い黒色の長い髪の毛だけが、水面を懐かしむかのように、ゆらりゆらりと、上へ向かって揺らめいている。
けれど緩慢に沈んでいく白い体に引きずられ、闇を緩やかに撫でるだけ。
コポリ
泡の昇る先を見遣る、深緑の瞳に光はなく、ガラス玉のようなソレは、何かの義務であるかのように、ただ浮かび上がる泡だけを映している。
コポリ
小さく開かれた唇から、また一つ、泡がこぼれる。
ゆらゆらと揺れる髪にふれて、軌道をかえながら、ゆるりゆるりと昇っていく。
まるで闇の中に落ちて行くかのように。
コポリ
落ちていく。
幾つもの泡が、頬をなで、髪をなで、闇色の空へ昇っていく。
コポリ
墜ちていく。
白い泡が闇に飲まれて消えていく。
コポリ
堕ちていく
遠い闇に飲み込まれ、見えなくなった泡は、それでもこの世界に存在しているのだろうか。
それとも、自分と言う観測者の眼を逃れた時点で、消失してしまっているのだろうか。
虚ろな瞳に、微かな光が宿る。
どうでもよい事だ
どちらにしろもう、見えなってしまった泡は、自分に何の影響も与えはしない。
あぁそれならやはり、泡は世界から消えてしまったと言っても良いのかもしれない。
自分という、この閉じた世界から。
なんてやはり、どうでもよい事だ
まるで闇に浮かんだ白い泡のように、唐突に浮かびあがった思考は、泡と同じように、再び闇に紛れていく。
今度はこの穏やかな時間を、無粋な思考に邪魔されないように、瞼を閉じて、静かな泡音に浸りながら、閉じられた思考を抱えて、再び浮遊感に身を任せる。
ここには何もいない。
彼を疎む者も。
彼を崇める者も。
彼を恨む者も。
彼を妬む者も。
彼を愛す者も。
彼が なければならないものも。
何もない。
そのうち、彼すら溶けてなくなってしまうのではないかと思われる程に、何もなく、 どうしてそれが、こんなに心地よいのかわからないままに、沈んでいく。
二度と浮かび上がらない事だけを祈って。
あの頭が割れてしまいそうな程の、音に満ちた艶やかな世界に、二度と戻ることのないように。
吐き気がするほどに、満ち溢れた生命の音に、壊されそうになるから。
落ちていく
墜ちていく
堕ちていく
彼の眼を逃れて、消えてしまった泡のように、誰の眼にも触れずに、消えてしまおうとするかのように、ただただ闇に、沈んでいく。
独りきりで
沈んでいく
ただ、聴く者の居ない泡音だけが、彼の存在を肯定するかのように
コポリコポリと世界を振るわせる。
コポリコポリ……
コポリコポリ……
コポリ……
…………
……