もうすっかりと、夜の闇に覆われてしまった庭の中。
掲げられた灯籠の、薄ぼんやりとした明かりの下にそれはいた。
足元まで伸びる長い黒髪と、かすかに光を放つ金色の瞳が印象的な、黒い着物を着た小さな子供。
細かな砂利が敷き詰められた、綺麗な庭の小道に、履物も履かず、ぽつんと一人立っている。
空には星一つ浮かんでおらず、ぽつぽつと灯る、屋敷へ続く道を照らす灯篭の、控えめな光だけが闇の中に浮かんでいる。
まるで世界には、この小道しか存在していないのではないか。そう思わせる程に闇は深く、生命が死に絶えたかのように静かだった。
そんな中、子供は灯篭の光で落ちた、己の影を見つめていた。
じっ……と。
そしてゆっくりと膝を折り、その影に手を伸ばす。
細い指先が影に触れる。
すると影は小さな波紋を作り、何の抵抗もなくその指を飲み込んだ。
子供は何のためらいもなく、更に腕を差し込む。
まるで影には底などないかのように、ずぶずぶと小さな体が沈んでいく。
やがて両の手が肘まで沈み、その長い髪の半分が影に浸かった頃、小さく砂利を踏みしめる、軽い音が背後から響いた。
「影に触れてはいけない。ただでさえお前は形が曖昧なのだから、影を崩すと溶け出してしまうぞ」
その声に振り返るより先に、腋の下に滑りこんだ大きな手が、影に沈んでいた子供の体を引き上げる。
子供の白い腕を、指をつたう黒い影が、重力に引かれるように、ゆっくりと滑り落ち、足元の影へと戻っていく。
「お前を探す我が身にもなれ」
それは、色鮮やかな外套を着た、煌めく金と赤の髪持つ男だった。
その眼は、子供と同じ――しかし子供よりも遥かに鮮烈な輝きを持つ金色。
しかし子供は、男の言葉が聞こえていないのか、小さな頭を足元の影へ落としたままだ。
それに気付いた男は、子供の視線を追って、小さな影に目を落とす。
「……月か。
この所、眼にしないとは思っていたが、お前の中に紛れていたか」
その言葉に初めて、子供はゆるゆると頭を上げると、穏やかな瞳を男へと向けた。
そんな子供をゆっくりと地面に下ろすと、子供の小さな頭に片手を添え、一つになった二つの影に膝をついた。
そして、その片側――子供側の影に浮かんだ小さな丸い月の上に手を添えた。
「お前は月の捕まえ方を知っているか?」
子供は男の言葉に小さく首を振る。
「月もまた陰。
陽の日に照らされて初めてその姿を見せる。
形を与えなければすぐに隠れてしまう、お前とよく似ている。
だからこそ、お前の影に紛れ込んだのだろう」
見ていろと囁くと、男はその手をするりと影の中へと差し込んだ。
その指先が影に触れた瞬間、子供の体が小さく跳ねたが、男は気にもとめず、月を汲み上げるように、手の平の上に収めてみせた。
まだその手も月も、影の中にある。
「闇に紛れるのなら、光を与えればいい。
何者も飲み込めぬ程、強い光を」
一瞬、鮮烈な光が瞬いたかと思うと、丸い月がゆっくりと二つに折れて羽ばたいた。
影から飛び立ち、ゆっくりと空へと昇るそれは、金色の鱗粉を纏う蝶だった。
暗い空を優雅に跳ぶ、月の蝶。
男に促され、子供がそっと手を伸ばすと、蝶は誘われるように、その小さな二つの手のひらの上へと降り立った。
男は子供の黒い髪を撫でながら言う。
「その月はお前にやろう。
お前の髪を飾るに相応しい光を持っている」
静かに手の平の蝶を見下ろす子供の額に、そっと手を添える。
「お前が望もうと、望まざろうと、月は輝く。
そしてソレを見るたびにお前は思い出すだろう。
お前自身の形を。あるべき魂の器を。
決して夜闇はお前を寝かせはしない」
睫毛に触れる、男の手の感触を最後に、視界は闇へと閉ざされた。
手の平に触れる。軽い羽の感触だけを残して。